天気:晴天のち大スコール
本日、けんたろうとしょうへいと愉快な仲間達は3手に分かれました。
① 起床→トゥールスレン→キリングフィ―ルド→セントラルマーケット
② 起床→トゥールスレン→キリングフィールド→シューティングレンジ
③ 起床→病院
この8年間でトゥールスレンは大きく変貌を遂げていた。
赤茶のでこぼこ道はコンクリートの滑らかな道路に、建物の周辺には建物が建ち並んでいた。
それ以上に中の変貌は目を見張るものだった。同時に、失望させられる変化だった。
8年前には冷たすぎる空気のせいで足を踏み入れることすらできなかった、何も無い大きな部屋は「沖縄とカンボジアの平和展示室」へと変わっていた。また、国際司法裁判にまつわる資料、ポルポト派や収容所生存者の供述や自白書の細かな英語又はクメール語の展示がなされていた。内容一つ一つは強烈で心に強く訴えかけるものだった。その反面、これは、英語やクメール語が達者ではない人間にとっては無味乾燥な施設になってしまったことを意味していた。
8年前の遠い記憶に唯一残っていたのは「畏れ」だった。それは、死、拷問、虐殺に対する「畏れ」だった。
8年後の私に残ったのは同じく「畏れ」だった。
しかし、8年の間に様々な知識や経験を培った私が感じた「畏れ」の対象は死、拷問、虐殺、ではなかった。
権力者による「正義」への陶酔に対する「畏れ」だ。
ポルポトが「正義」を追求していたわけがないじゃないか、と誰もが思うかもしれない。
しかし、「虐殺」を目的に自らの命を冒してまで政権転覆を図る人間がいるだろうか。
当初は親米政権化し崩壊しゆく母国を救済するために多くの危険を侵してクーデターを起こしたのだろうと思う。
その母国救済が己の「正義」だった。
人間は権力を持ち始めると、自分の力を過信する傾向にある。
人間が、自分より力、知識、才能等に長ける人間に歯向かうことは殆ど皆無だからだ。
その味を占めてしまえば、その「正義」が「正義」か否かは関係なく、権力者にとっては初心を貫き通すことが第一になる。
それが誠の「正義」であれば問題はないが、そうでなければ大きな悲劇を生むことになる。
「正義」の真偽は結果があってこそ判明する。
勿論、結果が伴っていても真偽が不明な場合もあるだろう。
しかし、ポルポトが、数えきれない程の無辜の命を奪ったことは揺るぎない真実である。
この結果を鑑みると、彼の「正義」を「正義」と呼べないことは明らかではないだろうか。
どの「正義」もが、「正義」にも「悪」にも転じ得る。
結果が出るまで待っているのでは多くの犠牲者が生まれるだけであろう。
どうしても途中過程では見極めることはできない。
悲劇を生まない唯一の方法は、
周囲の声に耳を傾けること。
乃至、
周囲が耳を傾かせるよう努力すること。
ポルポト政権の生んだ「正義」への自己陶酔による悲劇は、政治を初め、自衛隊、外交官、警察等、世界中の様々な空間・団体に遍在している。
つまり、このような悲劇は世界中どこでもいつでも起こる可能性を秘めているということである。
可能性を秘めているが、蓋然性を孕むわけではない。
頭角を現し権力者が台頭した頃、周囲の人間が批判的思考を駆使して働きかける必要があるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿